立山信仰

立山の修験者及び立山増徒の全国的な布教、とくに配札回りが、富山売薬行商の形成に関係があると考えられる。
中世には木曽御岳、加賀の白山また大和の熊野三山など、霊山といわれる山岳には、修験者がいて、山岳信仰が盛んであった。
越中の立山にも、南北朝時代からの立山の信仰が全国的に分布していて、夏季には立山に登拝する参詣者が集まってきた。
その往環道筋の芦峅寺や岩峅寺は、立山山ろくに当たり、登拝の根拠地の霊地として繁栄した。信者が集まり宿泊する宿坊は、
一定の壇那場があり、たとえば芦峅寺の善道坊は三河国、日光坊は尾張国と定まっていて、
登拝者はこの宿坊に集まってくるとともに、この季節をはずれると、毎年のように壇那場の国に出かけて行って、
立山信仰の宣教に当たった。
それぞれの宿坊には、立山曼陀羅の掛け軸が御堂にかけてあって、地獄、極楽の鬼、
仏そして人間の死後の世界の姿を如実に絵で示し、姥堂、閻魔道、布橋とこれをめぐる宗教行事を扱って、説教に役立てる。
この図柄は室町時代のころのものといわれている。
立山の地形や地名は、これに合わせた極楽坂、大日岳、浄土山の優雅な山なみや反対に地獄谷、
剣岳などの不吉な地名は、登拝者に切実感をもって迫るものがあったと考えられる。地獄の火山現象は、
山奥に死後の世界があるとの古来の信仰と仏教の説く地獄の信仰とが融合して、これこそ生き地獄であると信ぜられ、
恐れられたのであろう。また剣岳は罪深き者をおいあげる針の山とみられたであろう。
宿坊のある山麓の宗教集落から、立山僧徒は、夏の登山の時以外の季節には、それぞれの定まった諸国の信徒の家に、
立山の御札をもって、家内安全、五穀豊穣を祈って回った。
この壇那回りには、またほかに経衣や、付近に産するよもぎ、きはだの木の皮を原料として煮つめた薬も加えて持参した。
その壇那回りの時期は、大体一定していて、しかもこれらの代金は翌年の訪問のときに、
その間に使用した分について受けとる商慣習であった。
経衣は死者の出たときにだけ必要であり、薬は病気のときだけ服用されるものであるからである。
富山売薬業の配置方法と同様であり、あるいはその淵源であると考えられる。
旅先の壇那回りは、一定地区の有力者の家に宿泊して、そこで説教を行ったが、富山売薬商人は旅先行商にも、
地区の有力者の家に宿泊する慣例がある。
一般の行商の旅先往来と違った点も、この壇那回りの類型があることから理解される。
なおこの週間は、戦前までは可成り普及していたが、戦後は商人宿に泊まるようになった。

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